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レイチェル レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯 リンダ・リア著 2002 東京書籍
この本を読まれる際には、 リアが調査・執筆の過程で発見した、 レイチェルの遺稿を、まとめた、
失われた森 レイチェル・カーソン著 2000 集英社
を、傍らに置かれることをお薦めします。
わが国では「沈黙の春」で有名な、レイチェル・カーソンの伝記です。
「カーソンの生活や仕事に何らかの形で関わりのあった人びとへのインタビュー」と、 レイチェル自身の手紙などの書きもの等から構成されており、 彼女のモノローグと多くの人の話を次々と聞くような読書でした。
ピッツバーグ近郊に生まれ育ったレイチェルは、 母親の愛を一身に受けて育ちました。 母親以外には恵まれない家庭環境であったため、 苦労しながら、勉学に励み、社会へ出て行きます。
作家を志望して進んだ大学で、 メアリー・スコット・スキンカーに出会い、 生物学を志すようになる。
女性が自立して生きていくには、今より遥かに困難な時代ですし、 1907年の生まれで、社会に出ようとする時は、ちょうど大恐慌の頃でした。
自分に出来る限りの事をし、縁あって、 政府機関で科学者として働けられるようになりました。 1936年のことです。 海洋の調査と一般向けパンフレットの作成とが主な仕事です。
この本職が、次第に個人的な執筆活動に通じてゆき、 1941年の「潮風の下で」刊行に至ります。
この出版は成功とは言えませんでしたが、 この失敗を糧に、友人を通して、マリー・ローデルと出会います。 著作権代理業を委任されたマリーは、スキンカーの後を継いで、 レイチェルの一生に大きな役割を果たすことになっていきます。 そして、次に、出版社に勤めるポール・ブルックスに出会います。
「われらをめぐる海」が、1951年に出版され、大成功を収めます。 出版に先立って「ニューヨーカー」誌に掲載されたのは、 科学者としてより、作家として認められた事の表れでしょう。
7月2日の出版後、三週間で、ニューヨークタイムズ・ベストセラーリストの5位になりました。 そして、翌52年4月になってもなお1位を占めるに至るのです。 その間、「潮風の下で」が新装出版され、これは10位に入りました。
この成功により、レイチェルは、 フリーになり、 海辺の別荘を持つことが出来、 そこで、終生の心の支えとなったドロシーと、出会います。
次いで、1955年に刊行された「海辺」は、ベストセラーリストの2,3位まで上がります。 この頃には、1954年春に出版されたリンドバーグ夫人の「海からの贈り物」が、 一年以上全てのリストの1位にとどまっていました。 レイチェルにとっては、「われらをめぐる海」に止まらずこれからも評価される作家として認められたことが、大きかったのです。
1957年、 農務省のヒアリ駆除プログラムをとりまく論争と、 私有地へのDDT空中散布を止めさせようとするロングアイランド訴訟とによって、 レイチェエルは、「沈黙の春」への道を歩き始めます。
多くの資料にあたり、多くの人と出会い、 慎重に、それでいて使命感に燃えながら、書き上げられた、 「沈黙の春」は、1962年9月に刊行されました。
出版に先立ち、レイチェル等がどれほど気を遣ったか、 また、出版後、どれほど多くの分野から、どれほどの攻撃を受けたかは、 この本に譲ります。 まとめては、レイチェルに失礼なほど、出来得る限り、取り組んでいるのですから。 それも、ひたひたと近づく死と闘いながら…。
1964年4月14日に、レイチェル・カーソンは、その生涯を閉じました。
レイチェル・カーソンについて、紹介したいことはまだまだあります。 でも、又の機会にゆずって、最後に一言。
レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いて、大きな反響を呼び、 世界はその足取りに注意深くなることが出来ました。 でも、彼女が残した課題は、まだまだこれからのものでもあるのです。 40年近く経っても?と思うのは間違い。 人々は忘れやすく、 レイチェル・カーソンが警告したことは、又、別の顔をして表れてきます。 私たちは、レイチェルの伝えたかったことを、まだまだ、本当に理解しきれていない。
「レイチェル」 補遺
リンダ・リアが10年の歳月をかけ、 生前のレイチェル・カーソンと関わりのあった人たちにインタビューしたり、 エール大学へ寄贈されたレイチェルの未公開の書きものを掘り出したりして、 書き上げたこの伝記の内容は、広範囲で多岐にわたります。 こちらでは、そういう中身の豊富さにスポットを当て紹介します。
レイチェルは、会ったら物静かな方でしょう。 でも、ただのおとなしい人では、ありませんでした。 若い時から、いろいろな人との出会いを大事にし、 自らの人生を、文字通り切り開いているといっていい彼女の行動力も、 ここにはよく表れています。
しかし、そうは言っても強い人だとも言い切れない。 人生のそれぞれの時期に心の支えとした人を必要としていました。
彼女の人間性が、多くの人の証言と資料で、多面的に描かれています。
わが国では、「沈黙の春」で有名なレイチェル・カーソン。 彼女は、5月に生まれ、4月に亡くなりました。 その命日4月15日の翌日に、この伝記を読み終えたのも、なにかの縁と思う。 (「失われた森」では、4月1日になっていますが…)
生まれたピッツバーグ近郊の小高い丘は、自然に恵まれたところでしたが、 アメリカ有数の工業都市として名高いこの街が、早くから周辺の環境を汚染している様を、 レイチェルは見ながら育っています。
自然への愛、文芸への関心を育んだのは、彼女の母親で、 母親にとっては遅くに生まれた3人目の子どもでしたが、 自分の資質に一番近い娘と出会えた喜びいっぱいに、 手を込めて育てます。
子どもの頃、雑誌に投稿をして、採用され、 文筆についての資質に恵まれていたことを、示しています。 文学を志し、大学に進みますが、 家計に恵まれず、苦労しながら、勉学に励むうちに、スキンカーに出会う。
大学で出会ったスキンカーの影響で、 レイチェルの志望は、文学から生物学へと大きく変換する。 想像力を働かして物語を書くのではなく、 事実を科学者の眼で捉えながら、詩情豊かに表現する方向転換! 書くことの広がりに、今更ながら、膝打ちました。(笑)
スキンカーが、教師として優れていた様が、幾度も紹介されているので、 教育を志す方には、この辺り必読です。 優れた資質を持った生徒を預かる教師の責任の大きさをまざまざと感じました。 私も、実は、かって、学校司書を一時ではあっても目指したものです。 背筋を冷や汗が流れました。(^^ゞ
スキンカーの、 仕事をしながら、倦むことなく勉学に励み、 キャリアを高め、収入を増やし、社会的地位を高めていく様は、 レイチェルの前で、女性が自立して生きていく手本ともなっています。 後に「沈黙の春」でいろいろ言われた中に、女性蔑視の発言があって、 時代を感じ、また、レイチェルの応対の見事さにも唸らされました。
時代といえば、 著者は、レイチェルが時代の子でもあった面を、 抜かりなくフォローしながら、いろいろ書いております。 彼女が書くものの内容や、本が読まれた背景等など。
こちら日本では、「沈黙の春」の著者として突出して知られているようですが、 向こうでは、「われらをめぐる海」の著者として有名だったという順序があり、 それで、「沈黙の春」の存在が一層納得されるよう、読み取れます。
海辺の別荘近くにある「失われた森」を、環境保全したかったレイチェル。 彼女の目指したところは、近頃、森林の伐採権の購入という形を取るようにもなっていること、 最近のニュース雑誌で知りました。
このような レイチェル・カーソンの先見を示している事例には事欠かきません。 彼女の見識は、自然で、根本的で、豊かなものがあるから、 何を見ても、レイチェルを思う、 ということがあっても不思議ではないのでしょう。
根本的といえば、 レイチェルが尊敬する人の中に、 シュバイツアーがいます。 なつかしい名前に出会いました。 この頃、あまり聞きませんが、あなたはご存知? レイチェルは、彼の言葉を引用したこともあります。 又、「沈黙の春」を刊行したことで、彼から礼状を受け取っていました。
カーソンが本を書いているくだりを読んでいて、 本を書き、世に出す事の有意義さも考えさせられます。
苦心し、思いを込めて、何度も書き直す姿が、目に焼きつくといってもいい位、 そういう描写も多々ありました。
主著4冊以外にも遺著である「センス・オブ・ワンダー」を始め、 多くの未完の著述が残されているのを知り、 無念だったろうな、と思う。
その彼女を取り巻く人たちが、本の誕生に関わっている様子も、印象に残りました。 本の内容がもっといいものになるよう協力する人もいれば、 書かれた本が、もっとも効果的に読まれるよう腐心する代理人や編集者もいる。 後者は、「沈黙の春」の時に、この本への攻撃的な反響に対応すべく、 いろいろ手段を講じます。
晩年、テレビに出演しています。 このテープが残っていれば、いつか、出会えるかもしれません。 テレビ放送は、やはり大きな反響を呼び、効果も大きなものがありました。 でも、これは、彼女が「沈黙の春」を書いたから出来たことで、 どんなにいろいろなメディアが出てきて、技術が発達しても、 書物の持つ特異な持ち味が失せることは無いと、 感じたのも事実です。
これら一つ一つの話を味わっていると、 本の分量も、本を読むのにかかっている時間も、次第に気にならず、 いつまで読んでいたい気にさえなってきます。(笑)
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