| 主語を抹殺した男 |
評伝三上章 金谷武洋著 2006 講談社
外国人に日本語を教える際、 これまでの、橋本進吉・時枝誠記らによる文法では旨く説明できないことが、 三上章の文法では、出来る。 東大教授らの説明より、在野の研究者の理の通りが良いのです。
その三上章の伝記ですが、著者の思い入れが強く、 金谷さん自らの本に近くなっています。 これまでの三上像を修正したく描かれたようですが、 それでも一読後に残るのは、 三上章の悲痛な一生、という思いにつきます。 彼の学説は、 その一生の大半、あまり世に受け入れられることなく、 晩年近くになり、ようよう認められ出した。 しかし、神経に支障をきたしていたその頃の彼には、 もはやそういう待ちに待った境遇を生かす気持ちも、 更には余生もほとんど残されていなかったに近い。
読みながら、これまでの前人未到の地を歩んだ学者の幾人かを思い起こしました。 なぜ、三上さんがそれまでの人のように強くあることが出来なかったのか… 思うに、それは、身近にいた叔父の三上義夫の研究対象、 和算における「算額」をめぐる切磋琢磨の風に強く惹かれていた所為ではないかと、私は思います。
学界で不遇ではあっても、 桑原武夫、今西錦司、金田一春彦さんらの声援を得ていたことは、私にとって救いでしたが、 三上自らにとっては外野からに等しく、歯がゆいものがあったろうと、想像に難くありません。
これまで前人未到の学説界を切り開いた先人を幾人か思い出した中で、一番近く感じられるのは、森銑三さんで、 彼の西鶴の作品説も最後まで学界から黙殺されていたように見受けられます。 しかし、森さんの方は、他の様々な偉業もあり、出版界等で広く温かく迎えられていたので、三上章さんのような息詰まる思いは薄かったのかもしれません。 先に、佐藤信淵の事があったことだし…
日本語が外国人に学ばれるようになって、 国語が日本語として扱われる時、 外来の理論で間にあわさず、自らの思想に基づいて、 独自のものとして自らの学を唱えた三上さんを思うと、 人生は短く、技芸は長し とつくづく改めて思わされます。
|
| 散るぞ悲しき |
散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道 梯 久美子著 2005 新潮社
読後様々な思いが去来する。 もっと多くの人に是非この本を読んで欲しい。 栗林忠道さんが亡くなられた歳と同じ歳にこの本を読み、 その魁となった映画「硫黄島からの手紙」を見ることが出来たのは、 神様が引き合わたような気がします。
それを言えば、この本が書かれた事にも当てはまる。 栗林忠道さんの息子娘さんが、著者の取材後間もなく、 次々に鬼籍に入られたのです。 取材を思い立った著者を、情熱もって支えた編集者や、 取材を待ち受けていたかのような関係者等の協力で、 栗林忠道さんの人となりや思いが、この頃になってようよう広く知られるに至った。
また、この著作刊行とほぼ並行して、 映画「硫黄島からの手紙」が米国で作られたのも、 そうなるべくしてなった気もします。 日本人より、アメリカ人の方で、この島の戦がきちんと評価されていたのではないか? その思いがどうしても拭えません。 様々な戦局が紹介され作品化されてきた戦後の日本での硫黄島の扱いは、 手薄であったように、見受けられます。
敵をよく知り、いかに戦うべきかを自ら考えて実行した栗林忠道さんを、 きちんと評価し、それをこれまでに無く広く世界に使えたのは、 その敵であったアメリカ人。 天に居る栗原さんは、どんな思いでこの推移をご覧になっているでしょう。 あの時代から変わらぬ日本人の特性を鑑みて、 むべなるかなと思われているかもしれません。
栗原さんの家族思いから、現代の日本人の特徴に至るまで、 広く深い題材を、出来得る限り救い上げた著者に感謝します。 過ぎ去った過去の出来事を知る以上に、得る事の多い読書でした。
ものの見方、人の生き方、この世のあり方、などにも、 知らず思いを至らしめるこの本は、内容を紹介するより、 ただただ読む事をお奨めするしかありません。
|
| レイチェル レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯 |
レイチェル レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯 リンダ・リア 著 2002 東京書籍
この本を読まれる際には、 リアが調査・執筆の過程で発見した、 レイチェルの遺稿を、まとめた、
失われた森 レイチェル・カーソン著 2000 集英社
を、傍らに置かれることをお薦めします。
わが国では「沈黙の春」で有名な、レイチェル・カーソンの伝記です。
「カーソンの生活や仕事に何らかの形で関わりのあった人びとへのインタビュー」と、 レイチェル自身の手紙などの書きもの等から構成されており、 彼女のモノローグと多くの人の話を次々と聞くような読書でした。
ピッツバーグ近郊に生まれ育ったレイチェルは、 母親の愛を一身に受けて育ちました。 母親以外には恵まれない家庭環境であったため、 苦労しながら、勉学に励み、社会へ出て行きます。
作家を志望して進んだ大学で、 メアリー・スコット・スキンカーに出会い、 生物学を志すようになる。
女性が自立して生きていくには、今より遥かに困難な時代ですし、 1907年の生まれで、社会に出ようとする時は、ちょうど大恐慌の頃でした。
自分に出来る限りの事をし、縁あって、 政府機関で科学者として働けられるようになりました。 1936年のことです。 海洋の調査と一般向けパンフレットの作成とが主な仕事です。
この本職が、次第に個人的な執筆活動に通じてゆき、 1941年の「潮風の下で」刊行に至ります。
この出版は成功とは言えませんでしたが、 この失敗を糧に、友人を通して、マリー・ローデルと出会います。 著作権代理業を委任されたマリーは、スキンカーの後を継いで、 レイチェルの一生に大きな役割を果たすことになっていきます。 そして、次に、出版社に勤めるポール・ブルックスに出会います。
「われらをめぐる海」が、1951年に出版され、大成功を収めます。 出版に先立って「ニューヨーカー」誌に掲載されたのは、 科学者としてより、作家として認められた事の表れでしょう。
7月2日の出版後、三週間で、ニューヨークタイムズ・ベストセラーリストの5位になりました。 そして、翌52年4月になってもなお1位を占めるに至るのです。 その間、「潮風の下で」が新装出版され、これは10位に入りました。
この成功により、レイチェルは、 フリーになり、 海辺の別荘を持つことが出来、 そこで、終生の心の支えとなったドロシーと、出会います。
次いで、1955年に刊行された「海辺」は、ベストセラーリストの2,3位まで上がります。 この頃には、1954年春に出版されたリンドバーグ夫人の「海からの贈り物」が、 一年以上全てのリストの1位にとどまっていました。 レイチェルにとっては、「われらをめぐる海」に止まらずこれからも評価される作家として認められたことが、大きかったのです。
1957年、 農務省のヒアリ駆除プログラムをとりまく論争と、 私有地へのDDT空中散布を止めさせようとするロングアイランド訴訟とによって、 レイチェエルは、「沈黙の春」への道を歩き始めます。
多くの資料にあたり、多くの人と出会い、 慎重に、それでいて使命感に燃えながら、書き上げられた、 「沈黙の春」は、1962年9月に刊行されました。
出版に先立ち、レイチェル等がどれほど気を遣ったか、 また、出版後、どれほど多くの分野から、どれほどの攻撃を受けたかは、 この本に譲ります。 まとめては、レイチェルに失礼なほど、出来得る限り、取り組んでいるのですから。 それも、ひたひたと近づく死と闘いながら…。
1964年4月14日に、レイチェル・カーソンは、その生涯を閉じました。
レイチェル・カーソンについて、紹介したいことはまだまだあります。 でも、又の機会にゆずって、最後に一言。
レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いて、大きな反響を呼び、 世界はその足取りに注意深くなることが出来ました。 でも、彼女が残した課題は、まだまだこれからのものでもあるのです。 40年近く経っても?と思うのは間違い。 人々は忘れやすく、 レイチェル・カーソンが警告したことは、又、別の顔をして表れてきます。 私たちは、レイチェルの伝えたかったことを、まだまだ、本当に理解しきれていない。
レイチェル・カーソンの主著4冊は、翻訳されて読むことが出来ます。 しかし、彼女が、隈なく注意を払って書き上げた文章は、 この頃の多くの読みやすい文章に慣れた私たちには、読みづらいかもしれません。 是非、ご一緒に頑張って読みましょう。(^o^)丿 読めないけれど、読みたい方は、是非、自らこの伝記をお読みください。 私が紹介したものの他にも、あなたを後押ししてくれるものが見るかるでしょう。
2003.4.16 記
「レイチェル」 補遺
リンダ・リアが10年の歳月をかけ、 生前のレイチェル・カーソンと関わりのあった人たちにインタビューしたり、 エール大学へ寄贈されたレイチェルの未公開の書きものを掘り出したりして、 書き上げたこの伝記の内容は、広範囲で多岐にわたります。 こちらでは、そういう中身の豊富さにスポットを当て紹介します。
レイチェルは、会ったら物静かな方でしょう。 でも、ただのおとなしい人では、ありませんでした。 若い時から、いろいろな人との出会いを大事にし、 自らの人生を、文字通り切り開いているといっていい彼女の行動力も、 ここにはよく表れています。
しかし、そうは言っても強い人だとも言い切れない。 人生のそれぞれの時期に心の支えとした人を必要としていました。
彼女の人間性が、多くの人の証言と資料で、多面的に描かれています。
わが国では、「沈黙の春」で有名なレイチェル・カーソン。 彼女は、5月に生まれ、4月に亡くなりました。 その命日4月15日の翌日に、この伝記を読み終えたのも、なにかの縁と思う。 (「失われた森」では、4月1日になっていますが…)
生まれたピッツバーグ近郊の小高い丘は、自然に恵まれたところでしたが、 アメリカ有数の工業都市として名高いこの街が、早くから周辺の環境を汚染している様を、 レイチェルは見ながら育っています。
自然への愛、文芸への関心を育んだのは、彼女の母親で、 母親にとっては遅くに生まれた3人目の子どもでしたが、 自分の資質に一番近い娘と出会えた喜びいっぱいに、 手を込めて育てます。
子どもの頃、雑誌に投稿をして、採用され、 文筆についての資質に恵まれていたことを、示しています。 文学を志し、大学に進みますが、 家計に恵まれず、苦労しながら、勉学に励むうちに、スキンカーに出会う。
大学で出会ったスキンカーの影響で、 レイチェルの志望は、文学から生物学へと大きく変換する。 想像力を働かして物語を書くのではなく、 事実を科学者の眼で捉えながら、詩情豊かに表現する方向転換! 書くことの広がりに、今更ながら、膝打ちました。(笑)
スキンカーが、教師として優れていた様が、幾度も紹介されているので、 教育を志す方には、この辺り必読です。 優れた資質を持った生徒を預かる教師の責任の大きさをまざまざと感じました。 私も、実は、かって、学校司書を一時ではあっても目指したものです。 背筋を冷や汗が流れました。(^^ゞ
スキンカーの、 仕事をしながら、倦むことなく勉学に励み、 キャリアを高め、収入を増やし、社会的地位を高めていく様は、 レイチェルの前で、女性が自立して生きていく手本ともなっています。 後に「沈黙の春」でいろいろ言われた中に、女性蔑視の発言があって、 時代を感じ、また、レイチェルの応対の見事さにも唸らされました。
時代といえば、 著者は、レイチェルが時代の子でもあった面を、 抜かりなくフォローしながら、いろいろ書いております。 彼女が書くものの内容や、本が読まれた背景等など。
こちら日本では、「沈黙の春」の著者として突出して知られているようですが、 向こうでは、「われらをめぐる海」の著者として有名だったという順序があり、 それで、「沈黙の春」の存在が一層納得されるよう、読み取れます。
海辺の別荘近くにある「失われた森」を、環境保全したかったレイチェル。 彼女の目指したところは、近頃、森林の伐採権の購入という形を取るようにもなっていること、 最近のニュース雑誌で知りました。
このような レイチェル・カーソンの先見を示している事例には事欠かきません。 彼女の見識は、自然で、根本的で、豊かなものがあるから、 何を見ても、レイチェルを思う、 ということがあっても不思議ではないのでしょう。
根本的といえば、 レイチェルが尊敬する人の中に、 シュバイツアーがいます。 なつかしい名前に出会いました。 この頃、あまり聞きませんが、あなたはご存知? レイチェルは、彼の言葉を引用したこともあります。 又、「沈黙の春」を刊行したことで、彼から礼状を受け取っていました。
カーソンが本を書いているくだりを読んでいて、 本を書き、世に出す事の有意義さも考えさせられます。
苦心し、思いを込めて、何度も書き直す姿が、目に焼きつくといってもいい位、 そういう描写も多々ありました。
主著4冊以外にも遺著である「センス・オブ・ワンダー」を始め、 多くの未完の著述が残されているのを知り、 無念だったろうな、と思う。
その彼女を取り巻く人たちが、本の誕生に関わっている様子も、印象に残りました。 本の内容がもっといいものになるよう協力する人もいれば、 書かれた本が、もっとも効果的に読まれるよう腐心する代理人や編集者もいる。 後者は、「沈黙の春」の時に、この本への攻撃的な反響に対応すべく、 いろいろ手段を講じます。
晩年、テレビに出演しています。 このテープが残っていれば、いつか、出会えるかもしれません。 テレビ放送は、やはり大きな反響を呼び、効果も大きなものがありました。 でも、これは、彼女が「沈黙の春」を書いたから出来たことで、 どんなにいろいろなメディアが出てきて、技術が発達しても、 書物の持つ特異な持ち味が失せることは無いと、 感じたのも事実です。
これら一つ一つの話を味わっていると、 本の分量も、本を読むのにかかっている時間も、次第に気にならず、 いつまで読んでいたい気にさえなってきます。(笑)
2003.4.23
|
| レイチェル |
レイチェル レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯 リンダ・リア著 2002 東京書籍
この本を読まれる際には、 リアが調査・執筆の過程で発見した、 レイチェルの遺稿を、まとめた、
失われた森 レイチェル・カーソン著 2000 集英社
を、傍らに置かれることをお薦めします。
わが国では「沈黙の春」で有名な、レイチェル・カーソンの伝記です。
「カーソンの生活や仕事に何らかの形で関わりのあった人びとへのインタビュー」と、 レイチェル自身の手紙などの書きもの等から構成されており、 彼女のモノローグと多くの人の話を次々と聞くような読書でした。
ピッツバーグ近郊に生まれ育ったレイチェルは、 母親の愛を一身に受けて育ちました。 母親以外には恵まれない家庭環境であったため、 苦労しながら、勉学に励み、社会へ出て行きます。
作家を志望して進んだ大学で、 メアリー・スコット・スキンカーに出会い、 生物学を志すようになる。
女性が自立して生きていくには、今より遥かに困難な時代ですし、 1907年の生まれで、社会に出ようとする時は、ちょうど大恐慌の頃でした。
自分に出来る限りの事をし、縁あって、 政府機関で科学者として働けられるようになりました。 1936年のことです。 海洋の調査と一般向けパンフレットの作成とが主な仕事です。
この本職が、次第に個人的な執筆活動に通じてゆき、 1941年の「潮風の下で」刊行に至ります。
この出版は成功とは言えませんでしたが、 この失敗を糧に、友人を通して、マリー・ローデルと出会います。 著作権代理業を委任されたマリーは、スキンカーの後を継いで、 レイチェルの一生に大きな役割を果たすことになっていきます。 そして、次に、出版社に勤めるポール・ブルックスに出会います。
「われらをめぐる海」が、1951年に出版され、大成功を収めます。 出版に先立って「ニューヨーカー」誌に掲載されたのは、 科学者としてより、作家として認められた事の表れでしょう。
7月2日の出版後、三週間で、ニューヨークタイムズ・ベストセラーリストの5位になりました。 そして、翌52年4月になってもなお1位を占めるに至るのです。 その間、「潮風の下で」が新装出版され、これは10位に入りました。
この成功により、レイチェルは、 フリーになり、 海辺の別荘を持つことが出来、 そこで、終生の心の支えとなったドロシーと、出会います。
次いで、1955年に刊行された「海辺」は、ベストセラーリストの2,3位まで上がります。 この頃には、1954年春に出版されたリンドバーグ夫人の「海からの贈り物」が、 一年以上全てのリストの1位にとどまっていました。 レイチェルにとっては、「われらをめぐる海」に止まらずこれからも評価される作家として認められたことが、大きかったのです。
1957年、 農務省のヒアリ駆除プログラムをとりまく論争と、 私有地へのDDT空中散布を止めさせようとするロングアイランド訴訟とによって、 レイチェエルは、「沈黙の春」への道を歩き始めます。
多くの資料にあたり、多くの人と出会い、 慎重に、それでいて使命感に燃えながら、書き上げられた、 「沈黙の春」は、1962年9月に刊行されました。
出版に先立ち、レイチェル等がどれほど気を遣ったか、 また、出版後、どれほど多くの分野から、どれほどの攻撃を受けたかは、 この本に譲ります。 まとめては、レイチェルに失礼なほど、出来得る限り、取り組んでいるのですから。 それも、ひたひたと近づく死と闘いながら…。
1964年4月14日に、レイチェル・カーソンは、その生涯を閉じました。
レイチェル・カーソンについて、紹介したいことはまだまだあります。 でも、又の機会にゆずって、最後に一言。
レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いて、大きな反響を呼び、 世界はその足取りに注意深くなることが出来ました。 でも、彼女が残した課題は、まだまだこれからのものでもあるのです。 40年近く経っても?と思うのは間違い。 人々は忘れやすく、 レイチェル・カーソンが警告したことは、又、別の顔をして表れてきます。 私たちは、レイチェルの伝えたかったことを、まだまだ、本当に理解しきれていない。
「レイチェル」 補遺
リンダ・リアが10年の歳月をかけ、 生前のレイチェル・カーソンと関わりのあった人たちにインタビューしたり、 エール大学へ寄贈されたレイチェルの未公開の書きものを掘り出したりして、 書き上げたこの伝記の内容は、広範囲で多岐にわたります。 こちらでは、そういう中身の豊富さにスポットを当て紹介します。
レイチェルは、会ったら物静かな方でしょう。 でも、ただのおとなしい人では、ありませんでした。 若い時から、いろいろな人との出会いを大事にし、 自らの人生を、文字通り切り開いているといっていい彼女の行動力も、 ここにはよく表れています。
しかし、そうは言っても強い人だとも言い切れない。 人生のそれぞれの時期に心の支えとした人を必要としていました。
彼女の人間性が、多くの人の証言と資料で、多面的に描かれています。
わが国では、「沈黙の春」で有名なレイチェル・カーソン。 彼女は、5月に生まれ、4月に亡くなりました。 その命日4月15日の翌日に、この伝記を読み終えたのも、なにかの縁と思う。 (「失われた森」では、4月1日になっていますが…)
生まれたピッツバーグ近郊の小高い丘は、自然に恵まれたところでしたが、 アメリカ有数の工業都市として名高いこの街が、早くから周辺の環境を汚染している様を、 レイチェルは見ながら育っています。
自然への愛、文芸への関心を育んだのは、彼女の母親で、 母親にとっては遅くに生まれた3人目の子どもでしたが、 自分の資質に一番近い娘と出会えた喜びいっぱいに、 手を込めて育てます。
子どもの頃、雑誌に投稿をして、採用され、 文筆についての資質に恵まれていたことを、示しています。 文学を志し、大学に進みますが、 家計に恵まれず、苦労しながら、勉学に励むうちに、スキンカーに出会う。
大学で出会ったスキンカーの影響で、 レイチェルの志望は、文学から生物学へと大きく変換する。 想像力を働かして物語を書くのではなく、 事実を科学者の眼で捉えながら、詩情豊かに表現する方向転換! 書くことの広がりに、今更ながら、膝打ちました。(笑)
スキンカーが、教師として優れていた様が、幾度も紹介されているので、 教育を志す方には、この辺り必読です。 優れた資質を持った生徒を預かる教師の責任の大きさをまざまざと感じました。 私も、実は、かって、学校司書を一時ではあっても目指したものです。 背筋を冷や汗が流れました。(^^ゞ
スキンカーの、 仕事をしながら、倦むことなく勉学に励み、 キャリアを高め、収入を増やし、社会的地位を高めていく様は、 レイチェルの前で、女性が自立して生きていく手本ともなっています。 後に「沈黙の春」でいろいろ言われた中に、女性蔑視の発言があって、 時代を感じ、また、レイチェルの応対の見事さにも唸らされました。
時代といえば、 著者は、レイチェルが時代の子でもあった面を、 抜かりなくフォローしながら、いろいろ書いております。 彼女が書くものの内容や、本が読まれた背景等など。
こちら日本では、「沈黙の春」の著者として突出して知られているようですが、 向こうでは、「われらをめぐる海」の著者として有名だったという順序があり、 それで、「沈黙の春」の存在が一層納得されるよう、読み取れます。
海辺の別荘近くにある「失われた森」を、環境保全したかったレイチェル。 彼女の目指したところは、近頃、森林の伐採権の購入という形を取るようにもなっていること、 最近のニュース雑誌で知りました。
このような レイチェル・カーソンの先見を示している事例には事欠かきません。 彼女の見識は、自然で、根本的で、豊かなものがあるから、 何を見ても、レイチェルを思う、 ということがあっても不思議ではないのでしょう。
根本的といえば、 レイチェルが尊敬する人の中に、 シュバイツアーがいます。 なつかしい名前に出会いました。 この頃、あまり聞きませんが、あなたはご存知? レイチェルは、彼の言葉を引用したこともあります。 又、「沈黙の春」を刊行したことで、彼から礼状を受け取っていました。
カーソンが本を書いているくだりを読んでいて、 本を書き、世に出す事の有意義さも考えさせられます。
苦心し、思いを込めて、何度も書き直す姿が、目に焼きつくといってもいい位、 そういう描写も多々ありました。
主著4冊以外にも遺著である「センス・オブ・ワンダー」を始め、 多くの未完の著述が残されているのを知り、 無念だったろうな、と思う。
その彼女を取り巻く人たちが、本の誕生に関わっている様子も、印象に残りました。 本の内容がもっといいものになるよう協力する人もいれば、 書かれた本が、もっとも効果的に読まれるよう腐心する代理人や編集者もいる。 後者は、「沈黙の春」の時に、この本への攻撃的な反響に対応すべく、 いろいろ手段を講じます。
晩年、テレビに出演しています。 このテープが残っていれば、いつか、出会えるかもしれません。 テレビ放送は、やはり大きな反響を呼び、効果も大きなものがありました。 でも、これは、彼女が「沈黙の春」を書いたから出来たことで、 どんなにいろいろなメディアが出てきて、技術が発達しても、 書物の持つ特異な持ち味が失せることは無いと、 感じたのも事実です。
これら一つ一つの話を味わっていると、 本の分量も、本を読むのにかかっている時間も、次第に気にならず、 いつまで読んでいたい気にさえなってきます。(笑)
|
|
|
|